「このとき」病
最近、論文の添削を担当教授と共に行っていた際、一言いわれたのだ。
「このとき」が多すぎる 。
数学書を読んでいると、特定の状況を定めて議論する場合が多々ある。例えば、「を2以上の整数とする。」のような文だ。「このとき」は、そのように状況を定めた上で議論をする際の接続詞のようなものだ。
例:を実数とする。このとき、が成り立つ。
上述の例は状況が単純なので、次のように言い換えることができる。
- 実数において、が成り立つ。
- が実数ならば、が成り立つ。
- が実数のとき、が成り立つ。
さて、この「このとき」という言葉、めちゃくちゃ便利なのだ。
何故なら、数学は込み入った分野の話をしようとすると、基本的に前提が次第に複雑になり、文章で表すと長くなるのだ。長い文章は途中で切りたくなる。するならば、状況の説明が一通り済んで結論を書くところとなるだろう。その前後の文をつなぐのが「このとき」なのである。
一体「このとき」を使うことの何が悪いのか分からない人も居るだろう。この間まで私もそう考えていた。しかし、教授は冒頭の発言に加えてこう言われたのだ。
そのときに決まってるのだから、いらない。
つまり、上述の例で言えば「を実数とすると言った時点で、ここではが実数のときしか考えていないのだから「このとき」と説明する必要はない」というのだ。
正直おったまげた。私が読んでいたのは初学者向けの参考書と英論文ばかりで(分野がマイナーなので、日本語の論文があまり無い)日本語の論文を目にする機会に恵まれなかった。なので教授が「こちらの表現の方が適している」と言われれば、主張の内容がおおよそ同じならば素直に従っていた。しかし、私は(恐らく初めて)教授に文章表現で噛み付いた。
私は「このとき、は接続詞なのだから削ったら読みづらくなるだろう」と教授に意見を投げかけた。教授は「そんなことはない」と言った。そんなものが無くても主張の内容は読めるし、むしろあると文が単調になるということだろうか。
言うまでもなく、教授は論文を書いている量・読んでいる量共に私を凌ぎ、教授が「読みづらくならない」と言い、私はそれを読んでくれている人のために文を書くのだから、削らない理由がなかった。
を実数とする。が成り立つ。